デヴィ夫人は高級コールガール?【無修正画像】児玉誉士夫がキューピッド
デヴィ夫人は若い頃から美人で有名な人でした。
名前から想像すると海外の方のように思えますが、本名は根本七保子さんといいます。
デヴィ夫人と聞いていくつか気になる点があると思います。
例えばそれは、こんな疑問ではないでしょうか?
デヴィ夫人ってハーフなの?➡両親とも日本人です。
きれいだけど整形してるんだよね?➡整形してません!
何が理由で有名になった人なの?➡インドネシアの大統領夫人になり一躍有名に!!
衝撃の事実が飛び出しましたね。
日本人で、未整形で、インドネシアの大統領夫人???
とってもミステリアスな方ですが、いったいどういうことなのか、詳しい事情を知りたくなった方もいらっしゃるかもしれませんね。
そんな謎の多いデヴィ夫人の若い頃について、雑記ブロガーのウアリンが独自に調査をしてみました。
デヴィ夫人は貧困家庭で生まれ育った【体ひとつで成り上がる!】
まだ東京が都ではなく府だった頃、未来のデヴィ夫人こと根本七保子さんは今でいう港区西麻布で産声を上げました。
根本七保子さんは1940年2月6日生まれですから、第二次世界大戦がはじまっていた頃のことです。
父・母・弟の4人家族と、当時としては珍しく子供の少ない家庭に生まれ育っていた様子。
開戦してから戦火が激しくなったため、母親と弟と福島県に疎開したこともありました。
父親の仕事が大工の棟梁という立派なものでしたが、戦争当時ということで実家は裕福では無かったようです。
きっと日々食べる物にも困るほどの貧困生活を重ねていた姿が、想像できますね。
戦争終結後、敗戦の痛手から少しずつ立ち直った日本は、やがて高度経済成長期を迎えることになります。
時は1955年、当時15歳になっていた未来のデヴィ夫人は、自分の体一つで成り上がることを夢見ていました。
デヴィ夫人の若い頃の写真が好みでつい購入。
夫人の「楽しんで挑戦したもん勝ち」的な価値観好きだなー。
あと、相手のことを深く愛してれば、どんなに醜い姿でも愛しく見えるってくだり気に入った。こういうおばあちゃんにもなってみたい#選ばれる女におなりなさい pic.twitter.com/Sb3dcGlXT8
— あべ、燐 (@rinabeko) 2019年3月9日
デヴィ夫人の若い頃は苦労人だった!【貧乏生活は神様のギフト】
根本七保子さんは中学を卒業して、定時制高校進学と同時に生命保険会社に入社という、学業と仕事を両立させることに成功しました。
父親の根本兵七郎さんは、大工の棟梁でしたが無類のお人好し。
お金に困ったお客さんからは出世払いにしていたため、常に多額の借金を抱えていて家計は火の車状態。
苦しい家計を支えるために、お昼休みや休日にも喫茶店でアルバイトを掛け持ちする、非常に多忙な日々を過ごしていたのです。
貧困生活を抜け出すために、自分には何が武器になりうるのか?
まだ手探り状態でしたが、映画「青ヶ島の子供たち 女教師の記録」にエクストラ役で出演するなど、自分の容姿を活かす術を身に着けていきました。
高校進学の翌年の1956年に、父親が病気で亡くなったことで高校を中退することに。
極貧時代を過ごして得た知見は、「貧乏生活は神様が与えてくれたギフト」というものでした。
何一つ不自由を知らず満ち足りた生活をしていては、気持ちも緩んで現状に満足しがちですよね。
根本七保子さんは幼少期から少女時代に、貧困生活を過ごしたことで活力や想像力が生まれてくるという体験を積み重ねました。
その経験が、彼女にとんでもない選択を決意させることになったのです。
ネットでウロウロしてたら
デヴィ夫人の若い頃が美しすぎて✨ pic.twitter.com/qSAWB2m3Tw— 森永タミー (@tammy_morinaga) 2019年8月17日
デヴィ夫人は父親の死後に高校を中退!【赤坂の高級クラブのホステスに】
父親の死をきっかけに、高校を中退した根本七保子さん。
映画のエキストラ役出演という成功体験でつかんだ、自分の優れた容姿を武器に体一つで成り上がることを実践していくようになります。
そんな彼女が次の進路に選んだのは、なんと高級クラブ店のホステスになることでした!
安売り店で自分を安売りしても成り上がることは不可能だと、早い段階から目星をつけていたのでしょう。
根本七保子さんは、持って生まれた優れたルックスを武器に、初めから高級店に目を付けたわけですね。
赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」で働くようになった彼女は、政界・経済界の大物たちと接点を持つことに成功します。
客層が一般のクラブと違う高級クラブは、ホステスの採用条件も厳しく、一般のキャバレーやスナックとは別次元の世界です。
客層は大企業の社長や会長クラス、有名人や著名人だけでなく、政治家や芸能関係者などがお忍びで来店されるケースも多々あります。
そのため、単純に見た目が良いだけでは全く通用せず、政治・経済・趣味・習い事など幅広い知識や経験が無ければ、務まらないんですね。
高い客層に合わせた接客スキルを身に着けるため、猛勉強したことは言うまでもないでしょう。
そんな苦労人で努力家だった根本七保子さんに、未曽有の大チャンスが訪れます!
デヴィ夫人の若い頃、オードリーヘップバーンみたいでめっちゃ綺麗 pic.twitter.com/yfyhDm4wqh
— 𝒪𝓂𝑒𝓁𝑒𝓉𝓉𝑒 (@omelette_mt) 2019年8月30日
デヴィ夫人は赤坂の高級クラブで働き始めた【コールガール時代?】
赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」に入店してから、またたくまにクラブのトップホステスの座に上り詰めた根本七保子さん。
単純に見た目がどれだけ綺麗でも苦労知らずの温室育ちでは、高級クラブのトップホステスになるのは不可能だったのでしょう。
見た目がすごい美人で中身はさらに凄いのだから、なるべくしてなったという感じでしょうか?
生来の頭の回転の速さや器量の良さもありますが、なんといっても見た目が重要なポイントでした。
整形技術が未発達の昭和の中期ですから、もちろん整形なんてしていません。
若い当時の画像を見れば60数年が経過した現代人でも、根本七保子さんの美貌の凄さが一目で分かると思います。
彼女の人並外れた優れた容姿と、高い接客スキルはやがて、コパカバーナを訪れたVIP客たちの中で評判になります。
何人もの経営者や有名人、VIPたちがこぞって彼女にプロポーズしました。
並みのホステスなら、コロッと手玉に取られてしまうような条件を提示されても、首を縦に振らなかったと言われています。
初めから並みの大物ではなく、並外れた超大物(国家元首クラス)狙いだったんでしょうね!
そんな彼女が、高級コールガールのような仕事をしていたというウワサも飛び出しました!
夜の接客中に歯が当たらないように、入れ歯にしていたという情報もありますが、本当でしょうか?
彼女のとんでもない成功に嫉妬した人が流したデマの可能性が高そうですね。
前から思っていたけどデヴィ夫人の若い頃と櫻井敦司の若い頃って似ていないか? pic.twitter.com/az0A2syhnU
— 海鮮丼 (@btelovelove) 2019年8月17日
デヴィ夫人がインドネシアに渡って大統領夫人に!【愛人からの玉の輿】
「コパカバーナ」に入店を決めたことも、トップホステスの座に上り詰めたことも、根本七保子さんの思い描いたゴールでは無かったのです。
それは、お金持ちや成功者たちからのプロポーズを受けることでもありませんでした。
根本七保子さんが人並外れて大きな野望を思い描いていたことは、当時の誰も予測すらしてなかったのではないでしょうか?
入店から3年が経過した1959年、彼女が19歳の時に転機が訪れます。
政財界の黒幕・昭和のフィクサーと謳われた児玉誉士夫氏の口利きで、日本政府のインドネシアの開発援助に伴って、当時の大統領「スカルノ」の元に行くことに。
ここからインドネシア大統領の愛人生活が始まるんですね。
名目上は、東洋貿易の秘書ということでしたが…。
それから3年後の1962年にスカルノ大統領と結婚、デヴィ・スカルノ夫人の誕生です!
大戦当時に生まれ、貧困家庭に育ち学業と仕事を両立させ、夜の世界のネオン蝶と呼ばれるホステスの世界に飛び込んで行った根本七保子さん。
それが、大統領夫人(ファーストレディ)のデヴィ夫人と呼ばれるまでになったのですから、映画の主人公のような人生ですよね。
東洋の真珠とまで謳われた美しい容姿と、貧困生活で培ったバイタリティや野心を燃やしてのし上がった姿は、女性たちにとって憧れの的と言えるのではないでしょうか?
でもデヴィ夫人の若い頃ってハリウッド女優並みに綺麗だよね。そりゃあ他所の王様が見初めたのも頷ける。 pic.twitter.com/fakVTfOJmr
— Green Pepper (@r2d2c3poacco) 2015年11月5日
デヴィ夫人の名言が興味深い!【波乱万丈な人生経験の宝庫】
そんな彼女の発言にも注目が集まっています。
「社交界の恋はゲーム」
「大富豪を射止めるのは普通の女」
「ハイスペック男性から求婚され続ける人生」
「10カラットのダイヤをもらう方法」
「男は浮気をする生き物」
「男の視線はサプリメント」
「白馬に乗った王子より、自分流に育てた男」
「大好きな年収200万の男と好きでもない年収1億の男、どちらと結婚するべき?」
などなど、数々の名言は思わず見入ってしまうものばかり!
デヴィ夫人のサクセスストーリーを詳しく知りたい方は、著書「選ばれる女におなりなさい デヴィ夫人の婚活論」をご一読されることをおススメします。
たまにテレビ番組などで見かけて、舌鋒鋭く歯に衣着せぬ物言いで、ズバズバと言いたいことを言ってのける姿。
これは、彼女が経済的にも人間関係においても、誰にも依存していないことを意味します。
どこの誰にも忖度する必要が無いからこそ、的を射た鋭い発言が出来るんですね。
あやふやなものをハッキリさせないことを良しとする日本人社会では、きっとここまでの成功はつかめなかったことでしょう。
せせこましい日本を飛び出して、インドネシアに渡ったデヴィ夫人のその後の人生。
それは、決して順風満帆なものとは言えないものでした。
母親の死や、弟の自殺、夫の大統領失脚など不幸の連鎖が止まらなくなったのです。
デヴィ夫人は自分がワクワクする選択をして生きてる、好きな人だったり住む場所だったり。家族を捨てる、とはまた違った形だけど彼女が彼女らしく生きることを選んだ。
純粋にかっこいいと思ったの、楽な生き方じゃなかっただろうにそれでも突き進む姿が。#選ばれる女になりなさい— acco_7 (@acco712) 2020年2月28日
まとめ
この記事では、デヴィ夫人の若い頃にクローズアップしてご紹介いたしました。
長くなりすぎるため、デヴィ夫人誕生後のエピソードについては、また別の機会にしたいと思います。
1940年2月6日生まれで、現在84歳。
見た目の若々しさは、とても84歳とは思えませんね!
これからも物事の本質をドンズバで鋭く語ってくれる、美しくも気高い姿を披露していただけたらと思いますね。
ウアリンはデヴィ夫人の、さらなるご活躍を心から応援しています!
最後まで読んでいただいてありがとうございました。